今年一番最初の日
ジムに併設されているプールは思ったよりも混んでいた。
堺はゆっくりとした速度のクロールで、水の中を進む。上半身にあまり筋肉がつくのも問題だ。トレーナーと相談しながら組んだメニューを淡々とこなすことにのみ心を傾けるようにして泳いでいる。
正月三日。チームは明日から始動する。
もっとも今日は、毎年恒例で浅草駅にあるデパートでETUサポーターと初売りの買い物客向けに行われるトークショーに呼ばれている連中もいる。今年はキャプテンの村越と五輪代表効果で赤崎、それから主に座を温めるという意味あいで丹波が出演することになっている。去年は堺も呼ばれたが、今年はお呼びがかからずほっとした。ああいうイベントはひどく苦手だ。
広報からはあくまでも『事前に広報に連絡した上で』飛び入り参加は歓迎すると言われている。もちろん顔を出したら最後、確実にタダ働きさせられる仕組みだ。毎年何人かの若手がサポーターたちに顔を売る目的コミで必ず『飛び入り』するようにと選手内で暗黙の了解ができていて、トークショーに参加する面子から耳打ちの指名がされる伝統になっていた。今年は椿と宮野、それから上田が行くらしい。
世良は。
世良は「俺、去年と一昨年行ったんでもうお前じゃサプライズ感ないからいらないって丹さんに言われたっス。戦力外通告食らいました」と苦笑していた。元日の朝のことだ。
大晦日、東京から地方に向かう交通が荒天のために完全ストップしたため、世良は堺の部屋で年明けを迎えた。電車が動き出しているのを確認して、東京駅まで送ってやったのは同じ朝。
別れ際に生意気なキスをされ「3日の午後には戻りますから」とやけに熱のこもった瞳で言われた。
とっさに巧い言葉が出てこずに「ああ」と短い返事だけをした。
(世良のくせに……)
堺は気持ち泳ぐスピードをあげる。
今さらキスのひとつやふたつでどうこういう年齢でもない。世良と2人きりで過ごす時間の濃密さを思えば、それこそ、だ。
オーバーワークになるのを覚悟で、また少しスピードをあげる。とにかく身体を動かしていたかった。
(生意気だ……)
2日も前のキスの感触がずっと唇の上に残っている。気がつくと唇に手をやっていて、そんな自分にぎょっとした。
普段の毎日では、もちろんチームメイトとして毎日顔を合わせているものの、夜を共にするのはせいぜい週に一度か二度がせいぜいだ。夕食を一緒にとるのも同じくらい。互いに立場のある身の上だけに、そうそう恋人の時間を過ごすことはできない。
別段、自分たちが特別なわけではない。
こういう状況は社会人同士ならばごくごく当たり前のことだ。どちらかと言えば、自分たちはかなり逢っている方だろうしそこに不満を持っているわけではない。
だが。
「……堺さーん、ちょっとオーバーペースですね。一回あがって、サウナで身体温めてきてください。それから水中ウォーキングに切り替えましょう」
「……はい」
トレーナーが苦笑してプールサイドから声をかけてくる。自覚していたことでもあったから素直に従い、水から上がった。
サウナには誰もいない。室内の時計の針はまだ午前10時を回ったばかりだ。
「まだ、こんな時間か……」
思ったよりも身体が冷えているようだ。それで少し長めに、湿った熱気に肌を晒して体温が上がっていく感じを楽しむことにする。
いつもの正月だった。
堺は毎年大晦日の日に帰省して元日の夜に自宅に戻ることにしている。二日の日は完全休養日で、日課のロードワーク以外は一切身体を動かさずに本を読んだりDVDを観て過ごす。3日の今日はチームの本格始動に備えてジムやプールで軽く身体を動かす。
これはもう例年のことで、なにも今年が特別なわけではない。
「そうか、まだ午前中だったか……」
なのにどういうわけか、今日も昨日もやけに時間が進むのが遅く思える。
休暇の時間を持て余し気味だ。
(やれやれ……)
気がつくと、時計の針が進む音をひとつひとつ数えている。この感覚はどうももの慣れない。
結局、プールとサウナの繰り返しで粘ってみたものの、今一つ調子が上がらないままあがることにした。
結構時間を潰せたと思っていたのに実際のところはまだようやく正午を過ぎたあたりだ。フロントにロッカーのキーを返しに寄るとちょうど椿と宮野が連れだってやってきたところだった。
「っス! 堺さん、あけましておめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
チームが契約しているジムだから、チームメイトたちとばったり会うことは当然、ある。なのに2人は運悪く鉢合わせしてしまった先輩選手にぎょっとした様子だ。慌てて頭を下げてくる。
堺は軽く手をあげて応えた。
「おう。お前たち、今日トークショーの応援じゃねえの?」
声をかけると、若手2人は困った顔をして「そうなんですよ……」と弱音を吐いた。
「応援って、俺たち何していいかわからなくて……今年、応援チームの方、経験者いないんで。何すればいいんスか? 有里さんには、いい頃合いで立ち見の人たちの後ろに紛れこめば後はこっちで指示した通り動いてくれればいいから、って言われてて」
椿がげんなりした様子で言った。
「年末に世良さんに訊いたら『トークショー来る前に軽くジムで身体あっためてこい』って言うんで一応来てみたんですけど……俺ら、正直それどころじゃないんスけど」
宮野の言葉に堺は苦笑する。
「一昨年のことは知らねえけどな、去年は俺がメインゲストの一人だったから覚えてるぞ。若手はお客さんとのゲームコーナーでストップウォッチ代わりに腕立てと腿あげやって盛り上げ役やってたな」
世良は去年、前年の教訓からだろう、比較的動きやすい軽装で準備万端整えてやって来たがためにあえて他の連中の倍のノルマを言い渡されて、真っ赤な顔をしながら必死でスクワットをやっていた。
思い出して思わず吹きだす。若手2人はそれで大体、自分たちが何のために呼ばれてどう扱われるか悟ったらしくますます項垂れて「ストレッチがっちりやってこうか、宮ちゃん……」「上田にも連絡しとこうよ」と諦念の域に入ったらしい。
あの時、自分が世良とどうなるなんてことは考えもつかなかったが、確か石神が煽って堺が「やれ」と命じ、村越が頷いてそういうことになったのだ。話を聞くと毎年そういう流れらしい。
去年はチームが不甲斐ない成績に終わったせいか、客の入りは今一つだったのだが、世良をはじめとする若手が身体を張った必死なサポートをしたおかげでそれなりに盛りあがったことを覚えている。
世良はあの時も一生懸命だった。
ゲーム後のサイン会では、かなり多くの人に「がんばってましたねー」「よくやった」と、声をかけてもらっていたようだ。
(今年は多分去年よりずっと人が集まるってのに、残念だったな)
たった2日前別れたばかりの相手の顔が思い浮かぶ。
若手2人に「頑張れよ、終わったらすき焼き食わしてもらえるから」と希望を与えると、駐車場に向かう。
運転席に座ってから息を整え携帯をチェックする。
メールは一通も来ていない。
「……」
エンジンをかけると、そのまま新春の街に繰り出した。
ワインとガス入りミネラル、それから水素水を大量に選び、ついでに今日の昼夜の食材を一人分にしてはやたら多く買い込んだ。
時計を眺める。
もう、午後一時をまわっている。
「……」
ちりちりと胸の奥が焦げた。
メールはまだ一通も届いていない。着信履歴も残っていない。
ひどくいらついている。
とても、いらついている。
マンションの駐車場に戻ってくるともう一度携帯をチェックした。
やっぱりメールも着信履歴もないままだ。
「……遅ぇ」
堺は小さく舌打ちした。
どうせ時間はたっぷりある。だらだらと何回かに分けて買いこみすぎた荷物を運ぼうかと、ため息をつきながら車を降りる。
「……?」
ふと、気配を感じた。隣に停めてある車のあたりに不審な人影がある。ここの住人なら堂々としているはずだ。こそこそしているのが怪しい。正月早々車上荒らしかと、堺は警戒を強める。
(さっけんな。俺は今、機嫌悪ぃんだよ!)
「誰だ!」「わ!」
誰何の声に驚いて、車の影でごそごそしていた男が悲鳴をあげる。
「……世良?」
聞き覚えのある声に、堺は首を傾げる。
「何やってんだ? こんなとこで」
世良は決まり悪そうにリュックを背負い両手にいっぱいの荷物を抱えたままで物影から現れた。
「……あけおめ、っス。堺さん」
「ああ。そんで何やってたんだ、お前、こんなとこで」
「いやあ……いきなりマンション訊ねて脅かそうと思ったら、いないし……駐車場見たら車ないから出かけたんだなって思って。寮に戻ってる間に帰ってきたらもったいないなーって考えたら、ここで張るのが一番効率いいかなって……すんません」
最後は困った顔で頭を下げられた。
堺はため息をつくと「お前なあ……俺だってトレーニング行ったりするんだから来る時は連絡寄こせよ、小学生じゃあるまいし」と呆れる。
「いやあ……ほら、恋愛にサプライズとかって効果あるって言うし」
「俺が見つけたからいいようなものの、他の住人に見つかってたら問答無用で110番通報だぞ? わかってんのか?」
「あ……」
言われて悟ったらしく、世良が青ざめる。堺は苦笑した。
「しょーもねえのな、お前って」
「……言葉もないっス」
しょぼんとする世良に、堺は微笑する。
「罰だ。車ん中のモン、運ぶの手伝え」
「っス!」
ぱあっと輝くような笑顔に変わった世良は大きく頷いた。
「あ、堺さんに土産買ってきました。あと、ウチのお袋からもらってきた漬物あるんです。白菜漬。マジ美味いんで絶対堺さん気にいると思います。あと、黒豆!」
「わかったわかった。とりあえず手伝え」
「あと、堺さん……会いたかったっス」
「……るせーよ」
堺は、顔を背けてそう言った。
2人で手分けして大量の荷物を運びこむ。
それから堺の買いこんできた一人分にしてはやけに多い惣菜と、世良の土産でランチにした。
気がつくと、あっという間に時間が経っていたことに、堺が気付いたのは夜になってからだった。
悪かったはずの機嫌はもちろん、とっくの昔に直っている。
-Powered by HTML DWARF-