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 目が覚めると知らない天井があった。
「……っ!」
 堺は一瞬混乱し、それから今自分がどこにいるのかを思い出し、それからゆっくりと夕べの記憶をたどった。
(ああ、そうか……)
 下半身の奥に、鈍い痛みがある。まだ内側に他人の熱情が消え残っているようだ。
 今日は練習はあっただろうかと考えを巡らせて、途中でため息をついた。
 身を横たえているシーツや枕に残る香りは、間違いなく自分を抱いた男のものだった。
(そうだった。夕べ、俺は……)
 正直なところ、世良と寝るだなんてこと考えたこともなかった。世良以外の男とだってありえない。
「……っ」
 意識した途端、羞恥と後悔とその他たくさんの雑多な感情が一気にくる。

「堺さんっ! はよっス!」

「せ……」
 部屋の主で夕べ肌を合わせた人間の、世にも陽気な声が、パニック寸前の堺に浴びせられる。
「カーテン開けますよ? もう朝っス」
 そう言ってさっさとカーテンを開け放し、眩しい光を部屋いっぱいに満たす。
 鼻歌交じりの横顔を、堺はベッドに横たわったままで見つめていた。
 なんだか不思議とパニック寸前の動揺が静まっていく。多分、世良があまりにもいつもと変わらないからだと、妙な分析をしてみた。
(……お前は、もっとなんかいろいろ考えろよ。夕べ何したかわかってんのか?)
 顔全体で笑っているみたいだな、と思った。世良はいつもこんな風に笑っていただろうか、と考えてまた堺は混乱する。
 混乱した挙げ句、寝たふりを決め込むことにしてそのままベッドに潜り込んで世良に背中を向ける。
(なにをやってるんだ、俺は)
 自分のたった今の行動に呆然とする。これではまるではじめての朝を迎えた女の子のようではないか。

 我ながら気持ち悪い。

 ところが、世良の方はそうは思わなかったようだ。
「堺さん……」
 堺が籠城を決め込んだベッドの縁に勝手に座ると、布団にくるまって己の愚考に吐き気を覚えている堺の髪に触れてくる。
 手で撫でられれば、夕べの記憶が残る肌がざわつく。
 それで下半身の鈍痛とは別に、確かに自分は世良と寝たのだと堺は思い知ることになった。
 同時に、世良が一晩抱いた相手に対する情のかけ方はこういう具合なのかと、妙に感心する自分もいる。
 複雑だ。
 今までは一緒に夜を過ごした相手をいとしむ立場にあったのに、心をかけられている。そしてそれに妙な動揺まで覚えている。
「……すげぇ、好きっス」
 短い、だが真摯で重い言葉の後に髪に口づけられたのがわかった。
 寝たふりを貫こうとしていた計画はあっさり崩れ落ちる。いたたまれないとはこのことだ。
「……聞いてねえからな、そんなの」
 言いながら果てしない自己嫌悪に落ちていく。この状況では、世良になにを言っても恥ずかしいばかりだ。
「っス」
 世良が笑った気がして、ひどく腹が立った。
「堺さん、誕生日いつっスか? あ、でもやっぱここは奮発してダイヤかなぁ……給料三カ月分って年俸の四分の一でいいんスかね?」
「……何の話だ?」
 思わず寝返りを打って、世良の方に顔を向けた。今、ものすごく恐ろしいことを言われた気がする。
 世良はにこにこしながら、だからーとのんびりとした口調で言った。
「もちろん、指輪っス。何言ってんスか? やだなあ、堺さんは」
 世良が口にしている単語が示すアイテムのことならもちろん、知っている。
 この日この時この状況で口にするこの単語にどんな意味が付属されるかについては、わざわざ確認するまでもないことも堺はわかっている。
 だから、確認するのが恐ろしい。
「指、何号っスか? あ、もちろん左手のくすり……」
「知るか。お前何言ってんだよ」
 世良はきょとんとした様子で、堺の顔をまじまじと見つめた。
「……何って、俺、堺さんに指輪あげなきゃいけないじゃないっスか。あげるのにサイズわかんないとダメじゃないっスか」
 やだなあ、ホントに堺さん、何言ってんスか。と続ける世良に、ぷつりとキレる。
「なんで俺がお前にゆび……もらわなくちゃいけないんだよ?」
 思わず被っていた上掛けを跳ねのけて言うと、間近に世良の顔があった。
 にっこりと混じりっけなしの笑み満面。
「は……」
「やっと起きた。堺さん、結構寝坊なんスね。意外なとこ発見できてうれしいっス」
 ばかを言うな、普段は毎朝自主トレで5キロは走っているとか、今日が特別なだけだとか、そもそも腰が重くて走る気にならないとか、いろいろ浮かんだはいいがやっぱり何をチョイスすればいいのかわからず、堺はただぱくぱくと口を開け閉めする。
 世良はやっぱり機嫌のいい笑顔のままだ。
「俺と堺さん、お互いラブラブだってわかって、もうつきあうことになったんだし。つきあうんだったら指輪あげないとダメっしょ? そういうもんだし」
「つきあう……なんて、そんなこと俺は……」

「ダメっス」

 そう言って堺の言葉を遮った世良に、頭を抱き寄せられる。
「やっと、抱けたんスよ? やっと、届いた。なのに、今さらなかったことになんか、させないっス」
「ば……っ!」
 一瞬何を言われたのか理解ができず、息を整えて世良を見上げれば顎をとられた。
 唇が重なる。
 抵抗よりも自然に応える舌がうらめしい。
「……へへ」
 離れた世良はやっぱり嬉しそうに笑った。
「指輪、買いますよ?」
「お前はおかしいんだ」
 堺は頭痛を覚えながらかろうじてそう言った。
「おかしくないっス。俺は堺さんとはなるべく一緒にいたいって思うけど、やっぱ、それって難しいし。でも、指輪買って、堺さんがつけてくれてたら、きっとそれ見て俺のこと思い出すって思うんスよ。俺といない間の堺さんはそれで結構俺のモンだから」
 世良は目を細めて笑う。
 この男にしては、悪い顔をする。思った途端、ぞくんと震える。
「これって、サクリャクっス」
 だが、一瞬後にはもう暗いところのみじんもない笑顔だ。
 その黒から白に一瞬にして転じる落差に、多分調子を狂わされた。
 夕べだって、別に酔っていたわけでもなんでもない。
 誘われて一緒に行った世良にしては気の利いた和食の店の料理が美味かった。店を出たらまだ、少し飲み足らないと感じた堺に世良が「美味い酒を知り合いから譲ってもらったから」と部屋に誘った。
 素直にこの部屋に来て一緒に軽く呑んだのは事実だが、会話のほとんどは口説かれていた気がする。
 手を握られて、させるままにし。熱にうかされたように近づいてくる唇から逃げなかった。
 冴えた頭のまま、世良のベッドで抱き合った。
 あれは、堺の意志だ。
 日頃から世良の熱のこもった視線には気がついていた。その上で、二人きりで飯を食いに行き、部屋に行けばどうなるか予測できないわけがない。
 口説かれるのをわかっていて部屋にあがった。
 堺自身がそう選択したのだ。
「……俺は男だぞ?」
「知ってますよ。夕べ、全部見せてもらったし」
「指輪もらって喜ぶわけないだろ?」
「だってこれ、俺の作戦なんで。堺さんに俺のことずっと意識しててもらうための」
 世良は、まーだちょっと不安なとこあるんでテッパンにしときたいんです、とやっぱり笑った。
 堺はため息をつく。
 本気か? と、尋ねようとして夕べ飽かず繰り返された「好きっス」の声に含まれたあからさまな熱を思い出す。
 夕べはあれにあてられたのだと思おうとして、それは以前からずっと肌で感じていた熱だったことも思い出す。
 堂々巡りだ。
「世良はさ、つきあった女の子全員に指輪やってんのか?」
「……そう、っスね。最初につきあったコにせがまれて、そういうもんだって。つきあってるコには指輪あげるのがジョーシキだって」
 はじめて世良の表情が曇る。堺は苦笑した。
「そうやって安易に指輪なんかばらまいてるといつか訴訟起こされるぞ。婚約不履行とか、そういうの知ってるか? 指輪なんて、立派な証拠品になるだろ?」
「ばらまいてないっスよ。俺は、好きだって思ったコとしかつきあわないし。寝たりしません。しかも全員きれいに終わってます。何人かは、もう別の男とドーセーしてるし。一人は人妻っス」
 なんでいちいち別れた彼女のその後の消息まで正確に掴んでいるんだ? と、堺は黙り込む。世良は頭を下げて見せた。
「けど、ごめんなさい。指輪あげんの堺さんがはじめてじゃないっス。つきあってたコはみんなすっげー好きだったから後悔はしないけど、でもなんか……」
「……今まで、何個だ?」
 ぼそりと言うと、世良が困ったように片手を堺の目の前につきだした。そうしてゆっくりと、指を一本ずつ折り始める。小指まで折ると「今までに、こんだけ……」と消え入るような声で言う。
 なるほど、世良の本気は過去五人かと思い、それが多いか少ないかについて一瞬気を巡らせて堺は我に返る。
「……そんだけやってりゃ十分イベント満喫してっだろ。俺に指輪とか、勘弁してくれよ、ホントに」
「イヤっス」
「俺は受け取らない」
「ダメっス。こんなに自分のモンにしたい人なんてはじめてなのに」
「そうやって形にこだわんのはどうかと思うぞ。意味がない」
「堺さん!」
 世良は強い声で堺を呼ぶと、息をつく。
 それから、投げ出したままの左手をとった。
「別に何回もあげたからお腹いっぱいとかってないっスよ。そういうんじゃないっス。気持ちっス。俺は……やっぱあげたいっス。だって、これが最後になるんだから。でも、堺さんがイヤだって言うなら」
 言いながら、薬指の根元に唇をつける。
「……っ!」
 触れる感触。とりたてて敏感な場所ではない。だが、特別な意味を持った場所だ。
 世良がどんな意図でそこに触れているか、わからないほど愚かではない。
「……最後になるかどうかなんてわからない」
 きっと、世良は指輪を歴代の彼女たちに贈る時、いつもそう思って、そう囁いて渡してきたのだろうと思う。
 顔も知らない女の子たちはきっと、弾けるような笑顔を見せて世良の心を喜んだに違いない。
(そんなこと、できるかよ)
「なるんスよ。そう決めたんで」
 薬指の付け根に唇を当てたまま、世良はそう囁くように言った。
 きゅっと皮膚がひきつれる。痛みはなく、皮膚が寄せられる感じだけがした。
 世良に吸われているのだと知って、堺はひるむ。
 やがて、離れると世良はまた笑った。
「……へへ、ここ、痕つかないんスね。ちょっと残念」
「何やってんだよ」
「だって堺さん、指輪いらないとか言うから……イヤがるモンあげるのもダメだって思うし。なら、ここにキスマークとかつけとこうかと思って。でも、つかない……結構今、強く吸ったのに」
 世良が残念そうにそう言った。
「お前はやっぱ、よくわからないな」
「そうっスか? 単に堺さんが好きなだけじゃないっスか?」
 ぬけぬけとやすやすと、そう言いきってしまえる自信はいったいどこから湧いて出てくるのか。
 堺はまた言葉を失う。
 世良はキスマークをつけ損なった左手の薬指の付け根をそっと撫でる。
「ここに、毎日つければいいかなって思ったんス。堺さんが本物受け取ってくれるまで毎日つけてたら、多分堺さん、ずっと俺のこと考えるかなあって」
 そう言って笑う世良に、ばかじゃないのか? と、ばっさり言ってやってもどうもめげてくれそうもない。
 世良は「絶対つかないかなあ」と言って、何度も堺の薬指の付け根を吸った。
 触れる感触はあるのに、強く吸われても痛みも覚えない。世良がつけたがっている痕も残らない。
「世良は……」
 堺は一生懸命左手に痕を残そうとしてる世良の髪に手を伸ばす。
 シャワーを浴びてきたばかりらしい。淡いシャンプーの香り。ドライヤーで乾かし損ねた部分が冷たく堺の指を湿らせる。
 左手の薬指にはキスの痕など残らない。
 なのに、触れられる度にじんわりとした熱が甘い痛みのようにそこに残る気がした。
 きっと、そこには見えない痕が刻まれる。
 そうして世良が傍らにいないその時、疼くようにして堺に訴えるのだ。薬指のつけねには、世良の唇の感触がずっと残る。
 そうして、始終ずきずきと堺に世良の存在を訴えてくる。
 幾度も幾度も、薬指に残るキスの感触が堺に恋を囁く。
 くらりと甘いめまいを覚えた。

「世良は、そこだけで、いいのか?」

 堺は微笑した。
 その先の言葉は、口に出してはいけないものだ。それでも、言いたくなるのはきっと世良が感染ったのだと思う。
 夕べ一晩肌を合わせて、あまりにも混ぜ合わせすぎたせいで、世良の一部が自分の中に染み込んでしまった。そうして、薬指から最後の一滴を加えられてぐずぐずにされた。
 それがこの失態の大きな原因だ。
 世良は顔をあげる。
 やっぱり、指の付け根に唇の痕跡は残った。世良といるのにもう、ずきずきとしている。

「俺に痕をつけるのは、そこだけで、いいのか?」

 もしかしたら、素直に指輪をもらっておいた方が正解だったんじゃないかということなら、朝の明るい日差しの下でゆっくりと夕べのそれより熱いように思える世良を身体の内側に受け入れる頃には気づいていた。
 気づいたものの、そのことについて深く検討する余地が堺に残されていたわけもない。



 結局、堺はふとした瞬間に左の薬指の付け根に世良の口づけを感じたし、世良はほんのわずかな隙を狙ってはそこにキスを繰り返し続けた。
 一ヶ月に及ぶ攻防戦は激しく、ついに堺が世良に降伏するに至るまで堺の左の薬指の付け根には、千のキスが刻まれることになった。
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