予兆
「ちっくしょ……」
思わず声に出た本音は、多分自分を病院に連れて行く算段をつけながら一緒に歩いてくれているスタッフには聞こえていたと思う。
だが、聞こえない振りをして何も言わないでいてくれるのが今はすごくありがたい。
背後から遠い歓声が追ってくる。ほんの数分前まであのシャワーのように声が落ちてくる場所で走り回っていたのがウソみたいだ。
「……痛っ」
「大丈夫か、世良? 担架呼んでもいんだぞ?」
「っス。平気っス」
徐々に足首のあたりがずきずきと疼き始めている。足は地面につけるから、骨折ではないのはわかる。
(腱も大丈夫だ。切ってたら……歩けない)
昨夏のチームメイトのアクシデントを思い出して、一瞬世良は身ぶるいした。あのケガのせいで、結局夏木はまだ復帰できていない。
プロサッカー選手にケガはつきものだ。特に最前線でボールを巡って敵と渡りあうのが宿命のFWにとって、ケガは日常茶飯事だと言っていい。
実際、上位のチームであるほどかなり荒っぽく削ってくるのは確かだ。それに負けないタフなフィジカルを作り上げるかあるいはジーノのようにかわしまくる技術を身につけるか。
だが、それでもケガはついて回る。
(けど、今日の俺は自爆だ……)
前に転がってきたボールを懸命に追いかけて「届く」と思った瞬間、酷使した脚が悲鳴をあげた。
「……骨に異常はないようだし、多分ねんざで間違いないが一応病院でレントゲンは撮るからな。着替えたら行くぞ」
「っス。迷惑かけてすんません……」
背中から大きな歓声が追ってくる。びくりと反応してしまった。
「お、なんか展開あったか?」
「どっちかな? でもウチ、今季清水と相性悪いからなあ……世良、ちょっと車回してくるから。着替えてここで待っててくれ」
「っス」
ロッカールームに一人取り残されて、世良は大きくため息をついた。
スタッフたちの言う通り、多分大したケガではないのだと感覚ではわかる。
だが。
(もし……自覚症状がまだ出てないだけで、実はなんかヤバいことになってたらどうしよう?)
夏木ほどではないにしても全治一カ月以上の大けがだって、毎シーズンのようにどこかしらのチームで起きている。決して他人事ではない。
そろそろ熱を持ち出した足首がずくずくと脈動していると、あらぬ心配が頭をもたげてくる。
(大丈夫だって。ただのねんざだし。絶対ケガしない選手なんかいないんだし)
だが時期は最悪だ。
夏木がチームに戻ってきて、FWのポジション争いは苛烈になることがわかっている。
自分はいつまで、ピッチの外にいなくてはいけなくなるだろうか。
焦りを感じていたのは確かだが、思わぬことで足元にぽっかり穴が空いてしまった。
サッカーは、恐い。
息をついて顔を上げる。そこは、今、世良の代わりにピッチに立っている堺のロッカーだ。
SAKAIという文字を見て(そういえば)と、世良は思い当る。
(そういや、堺さんってあんま、ケガしないな……)
頭からシャツを被りながら、世良は思った。
いつもクールで近寄るなオーラを放っている9番は、正直世良にとっては近寄りがたい存在だ。
試合中の選手たちの私服がかかっているロッカーはオープンで、ホームゲームともなれば自分の部屋のようなものだ。
ネームプレートの入ったロッカーにそれぞれの私服が試合中の主を待っている。
なんとなく、堺のロッカーの前でのそのそと着替えていた。
目の前には世良などよりはよほど上背のある堺のジャケットやTシャツがきれいにかかっている。
(几帳面だよなあ。なんか、自主トレとか食い物とかにもこだわってるとかって、前に誰か言ってたっけ)
「ハァ……」
世良はため息をつくと、パーカーを着こむ。
靴はもちろん履けないから、ロッカーに突っ込んであった和菓子屋の紙袋に片方を放りこむ。
「……今度アドバイスとかしてもらお……って、してくれるわけないか……堺さん、コワイもんなあ」
着替え終わって、再び堺のロッカーの前に立つ。
「せめて、御利益的ななんか分けてもらいてえなあ……」
この時の世良は多分ETUに入団してからの数年で一番落ち込んでいた。
だからだったのかもしれない。 手を伸ばすと、簡単に堺の着ている服に手がかかる。
(なんか、すげぇどきどきすんな……)
ジャケットの袖を掴む。目の詰まったコットンジャケットの袖の感触は荒い。指で触れる感触の硬さはまるで堺その人のようだと世良は思った。
(と、触ったくらいじゃ御利益ないよな……わかんないけど、多分)
もう一度辺りを見回すと、思い切ってインナーに手を伸ばす。こちらはもう、直接堺の肌に触れている布だ。
こちらは手触りのいいコットンだった。
(うわ……なんか、これ、クる……)
妙に胸がどきどきする。堺の服を撫でながらうっとりしているなんて変態そのものだ。
なのに、まるで持ち主の肌を本人には内緒で触れているような背徳感が、世良をぞくりとさせる。
「……堺、さん」
小さく名前を呼ぶと余計に上がる。
気付いたら、世良は堺のTシャツの袖を持ちあげていた。
そうして。
そうして、そっと、堺のシャツの袖に唇を落とす。
まるで、騎士が姫に許しを得てするような恭しいキスだ。
心臓ならどきどきしている。自分が何をやっているのか自分でも言いわけが思いつかない。
(マジ、ヤバい……どきどきする……)
今ごろ負傷退場の世良の代わりにピッチを走っている堺の顔が思い浮かんだ。
罪悪感は倍増しだ。
「世良? 着替え終わったか?」
「……っス!」
突然破られた背徳の静寂に、世良はびくりと反応した。
(ま、ジでヤバかった……今の、ヤバかった)
若干敬遠気味だった先輩選手の服に、なぜ思わずそんなことをしていたのか。
世良が自覚できるようになるにはまだほんの少しだけ時間が必要だった。
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