今日はなんていい日だろう

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 ちょっとだけ咳こんだ。それだけだ。
 季節は冬で、空気は乾燥しているし、それにクラブハウスのロッカールームはこの前から少し空調の調子が悪くてなんとなく埃っぽい。
「なんだ、世良。風邪かあ?」
 この世の中の面白そうなことにはとりあえず端から首をつっこんでおくべきだという持論を持っている(に、違いない)丹波がさっそく絡んでくる。
 秘密の恋人と同じ年齢のこの先輩は、時々ひどく面倒くさい。
 世良は「丹さん、すげーうれしそうな顔してません?」と、イヤな顔をしながら抗議した。
「うれしそうな顔? してないしてない、心配してんだよ。なあ、堺ー?」
「俺に振るなよ。何が言わせたいんだ?」
 丹波は面倒くさいが、堺を引きずり込んでくれたのはいい判断だ。
 世良はおかげで堺のことを遠慮なく目で追える。
 少し、睨み返された。
「自重しろ」と言いたいのだ。世良が小さくうなずくと、堺の目が少し和らぐ。
 うまく、目線の会話が成り立ったらしい。
 最近はそれくらいならかなり正確に堺の心情を読みとれるようになってきた。
(俺と堺さんって、結構順調っスよね? 目と目で今、会話したって感じ)
 少しふわっとした気分になる。この分ならあとでメールして「今日、堺さんのマンションまで行きたい」と言っても許してくれるかもしれない。
(今日は、いける……!)
 前回二人で過ごした時間からの日にちを数えて、世良は自分を勇気づける。
「何を言わせたいって、決まってんだろ?」
 丹波が楽しそうに堺の肩に腕を回す。それで少し世良はむっとした。
(触んな……試合中でもないのに)
 プロスポーツ選手として生きている以上、チームメイトとのスキンシップくらいでざわついていてはやっていられない。
 世良も堺も点取り屋で、ゴールに一番近い位置でプレイをして得点を狙うFWだ。少なくとも世良はいつでもゴールが欲しいと思っている。
 ゴールが決まれば、仲間たちからの祝福は文字通り体当たりで注がれる。堺の身体の上に自分以外が重なったり、抱き合ったりするのを見ることだって、もちろんある。世間一般の成人男子と比べればむしろ、遙かにそういう機会が多い商売だ。
 その度嫉妬していたら、キリがない。
(けど、ムカつくもんは仕方ないんだよなあ……)
 世良は少しばかり自分にがっかりしながら、果敢に丹波の腕から堺を奪還しにかかる。
「何してんスか。堺さん嫌がってますよ? それに、そういうの、ユードージンモンって言うんス。ずるいっス!」
(後で絶対文句言われる……)
 わかっていても腹がたつのだ。他人が勝手に自分のものに触っているということは。
 ピッチの外では案外短気な堺が一瞬でキレた。
「あーうっぜぇ! 世良も丹波もうぜぇ、触んな。ていうか、世良!」
「はい……」
 堺は何気なく腰に回していた世良の手を思い切りはたくと、言った。
「お前が万が一風邪引いてて、さらに万が一にでも俺にうつしたら、蹴るぞ」
 容赦なく。プロのストライカーの黄金の右足で。
「……っス」
「ギャハハ、それそれ。それ聞きたかったー。あー、満足」
 丹波がそれはそれはうれしそうに言う。
「堺、お前の方がうるさいぞ」
 しみじみと村越にダメを出され、堺は世良を睨みつける。
(……コワいっス、堺さん)
 予想通りの結末に世良は言葉もない。
「俺、マッサージしてもらってきます。お疲れ……」
 堺はむっとした表情のまま、タオルをひっかけてロッカールームを出ていく。
「堺さん……」
 後を追うこともできず、世良は絶望的な気分のまま堺の消えたドアを眺めるしかない。
「セリー? ホントに風邪なのかい? なら、僕の半径30メートルに近寄るの禁止。君にとりつく風邪のウイルスはなかなか根性がありそうだからね」
 背中にジーノの優雅な声がして振りかえると世良は「王子、それいくらなんでもどういう意味なのか俺にもわかるっス」とうなだれる。
(なんかもう、サイアクだ、今日は……)
 ジーノの瞳が細くなった。
「セリーは素直でいい犬だね。嫌いじゃないよ」
 王子と呼ばれる男は、満足げに頷く。
「だけど残念なことに、セリー。僕は飼い犬は二匹いれば十分なんだよ。それに……君はいい牧羊犬だけど、既に他の飼い主がいるからね。僕は僕にだけ忠誠を誓う犬以外はいらないから」
「そっちは意味わかんないんスけど、王子……」
 世良がげんなりとして言うとジーノは一流の笑みを浮かべた。背後で椿がびくりと反応し、赤崎があからさまにイヤな顔をする。
 現在ETUにおける『王子の犬』といえば、この二人のことだった。
 公言しているのはジーノで、本人たちは一切認めていないのだがなし崩しにそういうことになっている。飽きっぽいと思われていた飼い主は周囲の予想を裏切って、今もにこやかに多頭飼いを続けていた。
 どうやら世良は王子の犬の三匹目にはならないでいい、ということらしい。ほっとした。犬じゃなくてもジーノからのパスはちゃんともらえている。できればこの関係キープをお願いしたい。
 ジーノは世良を意味ありげな眼で眺めまわすと静かに言った。
「それに、やっぱりもうちょっと賢くないと飼い主としてはちょっとね……風邪はひけるみたいだから救いようがないって程じゃないにしても、ね」
「てゆーか、話が完っ全にずれてます、王子。そもそもこれ、風邪じゃありませんてばー!」
 たかがちょっと埃にむせただけなのに、ここまで言われるとは最悪だと世良は思った。
(てゆーか、堺さんに「今日マンションに行っていいか?」って訊くこともできなかった……!)
 ちょっとでも「いい日」だなんて思った自分がばかだったと、世良は思った。今日は最悪の日だ。



「あー、遅くなったなあ」
 ちょうど風呂を出たところで広報に捕まっていた。ファン感謝デーで行うチャリティーオークションの出品物についてダメだしを食らっていたのだ。
 できれば私物、ある程度見栄えがよくてなんとなく高そうな気がするもの。サッカーに関係してるものならなおよし。どうしてもないようなら、公式グッズ出しますけれど、サポーターもそういうとこは見てるんでよろしく。サインは……
「なんで、サインした方がいいっスか? って質問に、ちょっと検討させて、って返事がくるんだよ?」
 これが夏木ならば、あるいは堺ならば……と世良はどうしても思ってしまう。
「今期は俺が一番試合に出たのに……」
 心の内側にある自尊心がじくじくする。大して尊大なものは持ち合わせていないはずなのに、この春頃から徐々に育っていった感覚だ。
 押さえても押さえても、自己主張したがる。
「あーあ」
 げんなりしながらロッカールームに向かう。どうせクラブハウスの中は空調が効いているだろうと、タオル巻きのままで廊下をぺたぺたと歩いた。
「もう、完璧に堺さん帰ってんだろうなあ……帰ってるよなあ、そりゃ。別に約束してるわけでもなんでもないし」
 一瞬、希望が持てそうな展開があっただけにその後の失態がつくづく惜しい。
「けど、まだダメって決まったわけじゃないし! 着替えたらメール、メール。FWは常にポジティブシンキング! ってね!」
 世良はタオル巻きの姿のままで一人拳を天井に突きあげる。気合は大事だ。
 別にさっきは少し咳こんだだけで風邪などひいていない。至って健康体だ。
 単純に着替えを持って移動するのが面倒なのだ。風呂場からロッカールームまではほんの少しの距離だ。どうせ、中にいるのはスタッフか選手だけだ。問題はない。
 ところがロッカールームのドアを開けた瞬間、いきなり鼻がむずむずきた。

「っ、くしゅっ!」

「やっぱ風邪じゃねえかよ」
「……堺さん!」
 堺が恐い顔をして自分のロッカー前で仁王立ちをしていた。
 もう、とっくに帰ったとばかり思っていた。
「お前、いくらクラブハウスの中が空調効いてるからってシャワー浴びたら服くらい着て歩け。今は何月だか知ってるか? 真冬にタオル一枚でうろつくなんてありえねえだろ。小学生でもわかることだぞ」
「いや、だって風呂場まで服持ってくの面倒だし……ほんのちょっとの距離じゃないスか……」
「そういう姿勢がもうダメだって言うんだよ」
「あ、でもでも、今のくしゃみは単にここが埃っぽいからだと思うんス。俺、元気です!」
 堺はげんなりとした顔をする。
 それから「いいから、さっさと服を着ろ。帰るぞ」と吐き捨てるように言った。
 怒られたことにしゅんとして、それから世良は今の堺の一言に聞き捨てならない情報を察して顔をあげた。
「さ、堺さん? 一緒に? 一緒に帰っていいんスか? 俺、今日車で。あ、堺さんは?」
「……今日は、置いてきた」
 世良はその場でぐっとこぶしを握りしめ「よっしゃあ!」と快哉をあげる。
(堺さん、今日は最初から俺と一緒に帰るつもりで来てくれたんだ)
 さっきのアイコンタクトといい、なんていい日なのかと世良はついつい口元がゆるむ。
「すぐ! すぐ着替えます。待っててください。俺が服着てる間に、帰ったらだめっスよ。絶対っスよ? いいですね? 先にこの部屋出たら俺、一生ではじめて堺さんにキレっかもです」
 堺は苦笑して「いいから、口動かしてないで手を動かせ」とロッカーのところに腰掛ける。
 それから、思い出したようにポケットを探った。
「世良!」
 シャツを頭からかぶった世良が反射的に手を出すと、手の中に包み紙に包まれたあめだまが一粒収まる。
「……堺さん?」
「やる」
 世良は手の中の小さなあめだまと堺の顔を見比べた。少し堺の頬が紅い。
「っス! あざーっス!」
「たまたま……俺が舐めるんで買ったのがあっただけだ」
「っス! うれしいっス!」
 うなずく堺は、これはあくまで自分のために買ったものであると主張したいらしい。包み紙をむくと、ひとつ口の中に放り込む。
 薄いピンクのあめだまを、同じように世良も口に含んだ。
「……ピーチ味だ」
「それしかなかったんだよ! のどあめ、それしか売ってなかったんだから仕方ないだろ!」
 弁明する堺の頬がまた少し紅くなった気がする。
「別に、俺のシュミだとかって勘違いすんなよ。売店にそれしかなかったんだからな……もものヤツしか」
 言って顔をぷいと横に向けてしまう。
 そんな様子を見せられて、世良はどうしたらいいというのか。
「……」
(ああ、もう、すっげ……ヤバい、この人。絶対ヤバい。ヤバいってわかってないとこがヤバい……)
 世良は急いで残りの衣服を身につけた。多分、人生でもっとも素早く行動できたかもしれないと世良は思う。
「堺さん……あめ、もう一個ください」
 スタジャンに袖を通しながらそう言う。キャップはまだかぶらない。
 世良の言葉に「あ? ああ、いいぞ」とうなずいた堺は背けていた顔をこちらに向けてくれた。

「俺、どうせならこれがいいっス……」

 世良は身を屈めながらそう囁く。
 堺の頭を捕らえてこちらに向かせ、そっと唇を重ねる。咥内でもう小さな欠片になっていた堺のあめを、そうして手に入れる。
(甘い……)
 それから、互いの口の中のあめがすっかり溶けきっても、しばらくキスをしていた。



 もちろん。
 唇を離した途端に現実に戻った堺に「ロッカールームでなんてことすんだ!」とすごい剣幕で怒鳴られ、思い切り殴られたとか。
 その夜は本当に世良が風邪を引いていないかどうか、堺が納得するまで指一本触れさせてもらえなかったことなどは、言うまでもない。
 それでもやっぱり、今日はいい日だと、世良は思った。
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