本日のスペシャリテ
(なんで俺はこいつとこの店でメシ食ってんだ?)
正直なところ、なぜこんな事態になったのか堺にはよくわからない。
世良は席に案内された直後からきょろきょろと周囲を見回している。
落ちついた内装は、プロヴァンス地方の民家をイメージしているらしい。堺は残念ながらかの地に赴いたことはないが、柔らかな色味のテーブルと椅子。それから、素焼きの花瓶にささやかな花と、この部屋のたった一組のお客に対する心使いのキャンドルの灯りがちょうどいい明るさの室内に彩りを添えている。料理を給仕した後、ギャルソンは部屋を辞していて、食べ終えた頃あいを見計らって次の皿を運んできてくれる。水やワインの注ぎ足しのタイミングも心得ていて、不快になることがない。
いつ来ても、行き届いた店だ。
世良にはもったいない。
堺は今夜のメインディッシュである鴨肉を骨から外しながらたしなめる。
「そんなきょろきょろすんな。わざわざ個室に入ってんだからお前のことじろじろ見るようなヤツはいねえよ」
「いや、むしろ俺見られたいっス。なんか最近ようやく町を歩いててファンの人から声かけられるようになってきて、なんかこうプロとしての自覚っつーか、そういうの出てきたっていうか。あれ、気持ちっスねー」
あっけらかんとして世良は笑った。
世良は小柄な自分の体格を気にしているようで、せめて相手になめられないようにと無精ひげを絶やさないようにしているそうだが、こうして屈託なく笑ってしまうとその効果も色あせる。
堺はため息をついて「じゃあ、お前だけ部屋の外のテーブル行くか? 他にも何組かお客いたぞ?」とドアの外を指さした。
世良は慌てて首を横に振る。
「イヤっスよー。せっかく堺さんとメシ食いに来れたのに。もったいないじゃないっスか。それに、個室とかって、VIPっぽくて気分いーし」
堺はまたため息だ。
浅草は基本的に洋食とお好み焼きの町だ。洋食とお好み焼きとついでにすきやきの美味い店はうなるほど揃っている。
それはそれだが、それなりに人生経験を積んできた男としてはちょっとした隠し弾は持っておきたい。
気持ち的にまず、イタリアンの店を除外する。さらに小ぎれいでメニューやレシピの隅々にまで心配りさされていて、料理の素材や味付けにもこだわりがあって、一言言えば奥の個室に案内してもらえる。オーナーとシェフの口が堅く腕がいい。できればワインの品ぞろえがいいところだとうれしいし、さらにこっそり焼酎のいいのを秘蔵で持っていたら言うことがない。車で行くことが多いから、ガス入りのミネラルの種類があるとなおいい。
何より肝心なことはチームの連中とうっかりバッティングするようなことが絶対にないところ。
いわばとっておきの店だ。
ここぞ、という時に頼りになる店。もちろん、そうそう見つけられるものではない。
そういう店を探すのは一苦労で、チームの本拠地と自分のマンションとのちょうど中間地点にある隅田川沿いのこのビストロは、堺の本当の『とっておき』だった。
とにかく野菜が美味い。さらに鴨や兎などのジビエの処理が抜群に巧くて、毎年シーズンが来るのが待ち遠しいほどだ。
なんとなく体調が今ひとつだと思った時にはここを訪れて特製のポトフと鴨のポワレ、もしくは仔羊の香草焼き。旬の頃にはジビエを堪能することにしている。それだけで、自分の中の喪われた何かが再生するような気がするのだ。
なのに、どうしてよりによって世良なんかを連れてくる気になったのか。
「堺さんってすごいっスねえ……俺、こんなおしゃれな店来たのはじめてッス」
「俺も野郎と二人っきりで来たのははじめてだよ……」
ETUに移籍してからできた歴代の彼女たちとは、一度はこの部屋で一緒に食事をしている。あまり構ってやれなくてむくれている時に連れてくれば、一瞬の修復なら可能だった。持続性はなかったが。
「このチキン、美味いっすね。なんかミラクルな味がする」
「鴨だよ。鶏じゃなくて鴨」
堺が静かに訂正すると、もうスイッチが入ったみたいに声をあげる。
「これ、鴨なんスか! すげー! はじめて食う。すげー!」と大騒ぎだ。
はじめて食べたことがすごいのか、鴨の味がすごいのか、とにかく気にいったようで何よりだ。
堺はきれいに骨からはずれた肉を口に運ぶ。ただグリルしただけではなく、ほんのわずか素揚げをしているのかもしれない。かりっとした皮と中の肉の驚くほどのジューシーさは、やっぱり「来てよかった」と心から思わせてくれる。
「うん、美味い」
「美味いっスねー。すごいっスねー。マジ、美味いっス。堺さんと来れてうれしいっス、俺」
堺の漏らした一言に、世良はあっという間に食いついてくる。
(この反応は、新鮮だな)
堺はいわゆるクールビューティー系の女としかつきあったことがない。だから、食事くらいでいちいちこんなに騒ぐヤツがいるのか、と思わず感心してしまう。
これだけ喜ばれると、うるさいのはもちろんだが連れてきた甲斐があるというものだ。
(てか、カノジョと比べてどうすんだよ、俺は)
「なんだこのソース。すげー美味いっす。なんか俺、美味いもん食ってる時って幸せな気持ちになるんスよねえ。堺さんは?」
「……ここのは何食っても美味いんだよ。すげー気にいってる店だから」
そう言うと世良は満面の笑みを浮かべた。
「はいっ! 美味いっス! あざーっス!」
(なんで世良を連れてきたんだ? 俺は)
堺は自分の中の混沌と対話する。
(ここは、俺のとっておきで。チームのヤツらとは間違ってもバッティングしたくないところで。なのに、なんで……)
勝ち試合の翌日は昨日の反省会の内容もあっさりとしていた。遠征先から朝イチで帰ってきたばかりで、軽く身体を動かした程度で練習はあがりになった。
仲のいい連中同志で「この後軽く飲みに行くか?」だの「僕は失礼するよ。女の子たちとの約束があるんでね」だの「久しぶりに娘と風呂に入るんだ、俺!」だのとクラブハウスのロッカールームは騒がしかった。
世良も若手だけで親睦会と称してどこかに行くような雰囲気だったのに。
なぜか、今、堺と差し向かいで鴨のポワレなどという凡そ世良のパーソナリティーからかけ離れた料理に舌鼓を打っている。
なんとなく今日はマッサージをした後でここに寄ろうと思ってはいた。だが。
(なんで世良なんか連れてくる必要があったんだ?)
また視界に世良を捉える。
堺の視線に気がつくと、世良はまた笑った。
世良の笑顔はなんだか光があるように思う。ふと、緩む。
「お前ってさー……電球みたいなのな」
思わずそんなことを口走っていた。
笑っただけで周囲がぱあっと明るくなるような、不思議な光を放つ笑顔だと、そんなことを思った。それだけだ。
だが世良は、堺の言葉を聞いてなんだか苦いものでも噛み砕いたみたいな表情になる。
(あれ?)
そんな反応はひどく意外で、少し驚く。
世良は同じポジションで同じサッカー選手で、同じチームで。
FWというポジションの連中の生来の我の強さを置いてみれば、多分堺にとってもっとも近況を語り、分かち合えるものを持っている存在のはずだ。
なのに9つも年齢下のせいか、世良は堺にとってほとんど未知の国の人のようだった。
見ているといつもなにかしらはがゆくてむずむずする。去年まで自分が走っていたフィールドを代わりに世良が駆けている姿はムカつくし、気にいらない。
今季のETUのフォーメーションはワントップでほぼ固定されている。ということは、世良が走っている限り自分に出番はないということだ。
本当に腹が立つ。首を絞めてやりたくなる。
だが、気になる。
気になって仕方がない。
FWなら、他に夏木がいるし宮野だっている。若さだけを気にしているのなら上田だって視界に入って然るべきだろう。
だが、気になるのは世良だ。
もちろんチームメイトだから顔は知っていたし、足が速いのはちょっと気になってはいた。
だが、春先一気に自分の居場所を脅かした若手は、勝ち取ったレギュラーの座をまだ確固たるものだと認識していない。
世良は眉を寄せて堺に訴える。
「堺さん、電球って…… それってもしかして俺の髪の毛ヤバいってことっすか? 薄いっすか? 生え際ヤバい感じするっスか? ウチ、親父もじいちゃんもセーフなんスけど、俺、まさかの突然変異ってこと?」
「そうじゃねえよ。安心しろ、生え際とかそんなにまずい感じはしないから」
「ホントっスか? びびったー。変なこと言わないでくださいよ、堺さん。俺、信じて焦ったっス」
堺は苦笑した。
やっぱり、会話が通じない。
ぎくしゃくしていてなんだか変な空気だが、たぶん、過去一緒に来た歴代彼女の誰といるよりもくつろいでいるから不思議だ。
(割としょっちゅう、お前の首絞めてやりたいって思ってるのにな)
目の前の男は、柔らかい肌も甘い香りのする髪も持っていない。堺の居場所を奪う世界で一番ムカつく人間の一人に違いない。
なのに、どうしても気になる。
世良は堺の心の中など知らずに、しきりに「ほら、ヘディングとかって絶対毛根的にはヤバいじゃないスか。前から気になってたんスよ。まあでも、俺、たいていゴール前の競り合い勝てねーしなー」としきりに頭頂部を触りながらぶつぶつ言っている。
「でも平気ならよかったッス!」
そう言ってまた笑う。
部屋の中が一瞬、明るくなった気がした。つい、苦笑が漏れる。
「ああ、あれか……お前、笑うと太陽みたいだって、言えばよかったのか」
堺は多少詩的な表現を思いついて口にしてみた。と、目の前の世良の顔がみるみる内に真っ赤になる。
堺は首を傾げた。
「……どうした? 鴨でも喉につまったか?」
「いや、喉よりも胸が詰まったっていうか……あの、堺さん?」
「なんだ?」
「今、結構キたんスけど」
急にもじもじとして気味が悪い。
「なにが?」
「堺さんっ!」
いきなり大きな声をあげて世良が身を乗り出す。
「お待たせをいたしました。本日のデザート。カシスのシャーベットでございます」
絶妙なタイミングでギャルソンがガラスの器に入った食後のデザートを持ってきた。
(そういえば、女ともめそうになった時も完璧なタイミングでサーブしにきてくれたよなあ、ここ)
完全に盛り上がった勢いを殺された世良は、慌ててテーブルの上の水をがぶ飲みしている。
ギャルソンは素知らぬふりをして空になった皿を下げた。やはりいい店だ。よく訓練されている。ちらりと常連の堺に視線を投げてきたので苦笑してみせると、小さく頷いて去っていく。
(なんだ。俺と世良が何かもめてるって思われたのか)
なんだかおかしくなって、堺はしゅんとなった世良を見つめた。
間の悪いところを他人に見られたからか、顔が赤い。
後輩だが、あんまり後輩という感じはしない男だ。
去年、サテライトからあがってきた時も、足が速いだけで特に意識したことはなかった。
自分とは違うタイプのプレイヤーだし、技術では完全に世良を上回っているという自信があった。FWワントップ体制になったとしても、夏木がいないことが逆にチャンスになるとさえ思っていたのだ。
(それがまあ、こうまで立場逆転するとはね)
達海監督のことは嫌いではない。
言っていることは理解できるし、去年までの監督たちとは違う、という手応えを感じつつある。
最終的に全節を終えた時、ETUがどこにいるのかはわからない。わからないが、おそらく、チームは「アタリ」の監督を引き当てたのだろうと、堺は思う。
(けどなあ。俺とフィットしてなきゃダメ監のがマシかもしれないって話だよな)
チームの状態が明らかによくなって、成績も上向いてきていて、その要素の中に自分が含まれていないことを認めるのはキツい。
チームの成績がどん底でも敗戦続きでもいいから、あのフィールドを駆けていたい。
どうしてもそう思ってしまうあたり、ここのところの精神状態はやっかいだ。
うつむいてシャーベットをすくう世良をつい、憎々しい目で見てしまいそうになる。
「美味いッス!」
目が合うと、世良はにっこり笑ってそう言った。
困ったことに、せっかく先輩特権でいやがらせだとかいじめだとかしてみようと思っていてもこの笑顔を見ると心が折れる。
(なーんかこう……)
「お前見てっとさー、なんかこう……」
もやもやとする。正体不明のいくつもの感情が内側でぐしゃぐしゃにかき混ぜられていて、いつも落ちつかない気分になるのだ。
だが堺はこの持て余し気味の状態を説明するうまい言葉を持っていない。
「なんか、こう。なんスか? 俺といるとときめくとか?」
世良が目をきらきらさせながらそう言う。
(ときめく?)
思ってもみなかった表現に、堺は真顔で首を横に振った。
「それはない」
「えー? ないっスか? ホントにないっスか? 急成長の俺を見て、まぶしいとかないっスか?」
「まあ、世良みたいなのは周囲を明るくすんなあとは思うけど、ときめくってなんだそりゃ?」
「俺は、堺さん見てるとときめくっス」
「何言ってんだ、お前?」
「ときめくっス。どきどきっス。てか、堺さん……」
世良は一瞬背後の気配を探る。どうやら邪魔はこないようだと確認すると、テーブルの上に身を乗り出した。
「俺、愛してます。堺さんのこと」
「……」
世良の言っている言葉は果たして日本語なのだろうか、とまじめに考えた。
言われた言葉の意味がよくわからない。
間近いところにある世良の顔をよく眺めてみる。
(……女、じゃねえよなあ)
見た目はその辺を歩いてる小僧だ。生意気に顎に無精ひげを蓄えているが、残念ながら威嚇の役目は一切果たしていない。
小柄で、正直今まで堺がつきあってきた女の方が平均身長が高い。
「お前、ゲイだっけ?」
「違うっス! 俺、この前まで彼女いましたし。でも、今は堺さんを愛してるんです」
もう一度言われた言葉の意味を租借してみる。
「……わかった。食べつけないもん食ったから、食あたり起こしたんだな。胃薬もらうか?」
「違いますよー。料理めちゃめちゃうまかったっス。初デートの思い出の味に胃薬はいらないっス」
「初デート? これが? 違うだろ」
いいながらだんだんかっかしてくる。頬が熱くなっているのはどうしたのだろうか。
怒りでもなければ軽蔑でもない。そういう感情の真逆にあるような何かが、自分の中にいる。
堺は、大きなその塊を感じてぎくりとした。
これは、気づいてはいけないものだ。と思う。
これは、触れたら最後後悔するものだ。と思う。
「初デートなんです! 俺には初デートっス! 好きな人と一緒にふたりきりで食事っスよ? しかも堺さんから誘ってくれてるんですよ? これが初デートじゃなきゃなんなんスか?」
「……なにって、食事。ただの」
「俺にとってはただの、じゃありません!」
世良は近くできーきーわめく。うるさくてかなわない。の、割にそう不快でもない。
「……堺さん」
また、じっと世良のことを見つめてしまっていたらしい。
最近になって急に意識せざるをえなくなったこの男は、何もかもがわからない存在で、つい観察してしまっている。
近い距離で世良の目が細くなった。
「これなら、ただの食事、じゃないっスよね?」
何を言っているんだろう、と思っていたら目の前が暗くなる。
なぜ暗いのだろうと思っていたら、唇に何かが触れた。
唇に触れたものはなんだろうと考えた。
唇だけではない、あごのあたりがちくちくとして痛い。
これはなんだろうか、と考える。
世良だった。
「……キス、カシスシャーベットの味ってファーストキスにしちゃ上出来じゃないっスか?」
世良が笑っていた。
世良が笑うと世界が明るくなる。全世界を明るく照らすような押しつけがましい強さはない。
それでも、堺には十分な明るさだ。
今までかわしたことのないキスだと思った。ほんの中学生の時以来の、唇が触れるだけの。
いや、キスの最中に相手のひげが当たったことなど堺には一度もない。
「愛してます」
まじめな顔をして世良が言う。
よくわからないが、堺は一瞬にして全世界がひっくり返る音を聞いた気がした。
ぐるぐると思い悩み、視線を投げたくないはずなのについ目が追ってしまう。
そんな感じをどう説明すればいいのか、ずっと昔は知っていたように思う。
(世良が笑うと、ただ笑っただけで世界が明るく……なる、だって?)
顔が熱い。全身が熱い。身体の中に熱い塊がいる。いつからかずっとそこにいた。
堺が見て見ぬ振りをしていたその塊の正体を、世良はあっけなく暴いてしまった。
情緒がないのはどうかと思う。
だが、世良らしくて悪い気はしない。
「俺、真剣に堺さんのこと愛してます」
重ねて言われる言葉が愛を告げるそれだと、ようやく堺は理解した。
理解したのにもかからず、思わずうなずいてしまったのは、何かの間違いだ。
堺はそう思った。
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