【preview】センチメンタルマーメイド
あっと思った次の瞬間、世良は風にあおられてバランスを崩し、ボールを追ってあっけなく海に落ちた。
「だから言わんこっちゃねえんだよ。手間かけさせやがって!」
海の中は堺の領分だ。
海に落ちた瞬間に気を失ったらしい世良の小さな身体をたちまち見つけると、堺は胸元に抱きしめ海を泳ぐ。
(よし。そのまま気ぃ失ってろよ。その方が水を飲まなくて済む)
嵐の夜は、海面にいくつもの白波がたつ。堺は世良を抱き抱えて泳ぐ波間に、鮮やかな色合いのサッカーボールを見つけた。
「……っ!」
思い立って、ボールに追いつくと一緒に抱える。
青ざめたまま目をつぶっている世良と見比べると、はじめてふっと笑みが浮かんだ。そのまま、トレセン島の対岸にある岩場に向かった。
「……!」
ふと、胸のあたりにうごめくものを感じて世良を見ると、目を閉じたままで堺の胸の辺りに顔を押しつけている。
「てめ……このまま沈めるぞ?」
無意識に、胸にある飾りに吹ついているのだと知ると堺はため息をついた。赤ん坊が母親の乳を吸うようにして、しゃぶりついてくる。
「……?」
今まで感じたことのない怪しい刺激に、堺の身体がびくんとはねる。頬に赤みがさすのがわかった。
「……っ、ガキのくせに……っ!」
世良の意識はない。おそらく、死の危険に直面した肉体が本能的に退行現象を起こしているのだろうが、堺が感じる刺激は変わるわけもない。
「……っ、やめ……っ!」
鱗に覆われた腰のあたりが熱くなる。こんな感覚ははじめてで、堺は戸惑った。
やっとのことで岩場の隙間に世良の身体を持ち上げる。
「ん……っ」
早々に気を失ったせいで水はほとんど飲んでいないようだ。堺は、青ざめた顔の世良の額にかかった髪をよけてやる。
「お前……せっかくサッカーできんだから、死ぬんじゃねえよ。もったいない……」
この場所なら満潮になっても水底に沈むことはない。とはいえ、全身ずぶぬれで雨風にさらされ続ければ、世良が朝にはどうなっているかは保証の限りではない。
「どうしようか……」
堺は思案にくれる。夜目のきく堺には世良の唇が紫色になっているのがわかった。せめて、雨風から守ろうと、世良の上に覆い被さる。
「……っ! そうか、人間の肌は温かいんだったな」
見知らぬ温もりに、また身体の奥が反応する。人よりもずっと体温の低い人魚では、世良に温もりをわけることはできない。
逆にわずか残っている体温を奪うことになるのではないかと、堺は世良から離れようとした。
「……っ!」
だが、するりと延びてきた世良の手が堺の背中を抱きしめる。
一瞬目を覚ましたのかと思ってひやりとしたが、そんなことはないようで少し安心した。
「マセガキ……」
抱き枕にでもしがみつくように世良が堺にすがる。
わけもなく狼狽する自分が堺には信じられなかった。
どのくらいそのままでいただろうか。ふと、嵐の合間に人の声が聞こえてきた。
「世良ぁ!」「世良、どこだー?」
どうやら宿舎のベッドに世良がいないことを知った人間たちが探しにきたようだと悟る。
「……っ!」
あわてて身体を離そうとすると、予想外の力で世良が堺の背中を抱いてきた。
「ざけんな。俺はあいつらに見つかるわけにいかねえんだよ! 離せ、世良!」
怒って怒鳴ると、案外素直に手の力がゆるまる。本当は目を覚ましているのではないかと堺は一瞬疑った。
だが、青ざめた顔のまま世良は睫ひとつ動かすことがない。
「……そういうわけでもねえんだな。なんだよ、お前は。ちっともほかの人間と変わんねえのにな」
堺は苦笑すると、世良の鼻の頭をちょいとつつく。
「てめぇ、絶対サッカーやめんな。サッカーできる足を持ってるくせにやめんのは許さねえ」
世良を探す声がますます近づいてくる。早く、ここを離れなければいけない。
「ああそうだ。俺、お前にもっといろいろ言いたいことあんだよ。まずリフティングはボールから目を離すんじゃねえよ。あと、ちっとはポジショニングってもんを考えろ。てめぇの武器はその足なんだから、死ぬ気でそれ磨けよ。あいつらよりよっぽどいいもん、世良は持って……」
言いかけた言葉を飲み込んで息をつく。
岩場に投げ出された格好の世良の脚につと触れた。まだ未発達だが、すでにスプリンターの筋肉がつく予兆がある脚だ。
「俺の欲しいもん、お前は持ってんだよ。地面蹴れる二本の脚。大事にして……」
また言葉が淀む。
「……もう行かないとな」
それから冷たい頬に手を添えた。どんどん貴重な体温が奪われていっているのがわかる。早く助けを呼ばないと、いよいよ危険かもしれない。
「……っ」
堺は思い立つと自慢の尾鰭から、小さな鱗を一枚引きはがす。人魚の鱗の一枚はそれ事態が宝石よりも価値のある貴いものだ。
普段は決して損なわれることのないものだけに、その痛みは想像以上だった。美しい七色の身体に紅い紅い血が流れる。
海が、至宝の身に傷がいったと一層暴れた。
「うるせえよ。自分ではがしたんだから騒ぐな」
堺は背後に向かってそう叫ぶと、小さな鱗を舌の上に置く。それから、眠る世良の唇に自ら顔を寄せた。
「……っ」
冷たい唇に触れ、ゆっくりと舌で割り開く。世良の上顎の辺りをそろりと舌先で舐めると鱗を押しつけるようにして張り付ける。しばらくそうしていると、堺の鱗は世良の咥内に完全に埋没してしまった。
唇を離すと、眠る世良の顔をもう一度撫で堺はボールと共に海に飛び込んだ。そうして十分沖合まで移動したところでボールを宙高投げ上げ、自らも水上に高くジャンプすると、尾鰭で思い切り陸地に向かってサッカーボールを蹴り込む。
万物の理が見せてくれたオーバーヘッドキックの要領だ。
(ああ……なんだよ、これ。楽しいじゃねえかよ)
ボールは嵐の海から狙いすました場所に落ち、転がっていく。
(ほら見ろ。どんぴしゃだ)
自らの技術を、堺は誇らしく思った。
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